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加治矯正歯科クリニックまでの道のり~大学卒業からアメリカ留学まで~

加治矯正歯科クリニックまでの道のり私が大学に入学した1977年当時、歯科開業医は今ほど多くなく、近所の歯科医の待合室には患者さんが溢れていました。

近所の大学だからということで比較的安易な気持ちでの入学。
九州歯科大在学中は、それほど熱心に勉強していたわけではなく、クラブ活動に明け暮れる毎日でした。
5年生の夏にたまたま、学園祭の小冊子制作の仕事を任され、何か硬派な話題はないかと思い当たったのが、近い将来に将来歯科医過剰時代が訪れるとの話題。
このテーマで、自分なりに調べてみようと思い立ちました。

当時の歯科医師就職事情では、卒業後2~3年を一般開業医で勤務医として働き、その後個人で開業するというのが当たり前の時代でしたので、自分自身も漠然とそのようになるのかなと想像しておりました。

しかし、西暦2000年の予測をした結果、完全に歯科医過剰状態に陥り、自身も安泰ではないという結果に愕然としました。
自分自身、学部時代は必ずしも勉強熱心ではなかったので、このままでは卒業しても開業医としてきちんとやっていけないのではないだろうか......という漠然とした不安感と焦燥感にとらわれました。

それならば、大学に残って大学院に進み、いずれかの分野で専門医となればよいのではないかと考えましたが、6年間の学部生活を終えた後、さらに4年間同じ場所に留まるのはどうしても気乗りしませんでした。

当時、歯科医の仕事として、従来からある虫歯歯周病の治療に加え、顎関節症という言葉が臨床家の間で急速に普及し始めておりました。
これをあわせて当時は歯科の三大疾患と呼ばれてもおりましたが、私自身学生でしたので、臨床の詳しいことはよくわからず、卒業して専門の勉強をし、専門医になるのであれば新しい分野で勉強するのが一番良いのではないかと思うようになりました。

さらにどうせ勉強するのであれば、専門医制度が確立しているアメリカにいくのが一番良いのではないかと思いつき、5年生の秋、英語の勉強のため、地元のYMCAに通うことにしました。

幸い、6年生の秋に大学院入学の目処がつき、大学卒業後は留学資金を貯めるために、地元の歯科医院に渡米までの約1年間勤務致しました。
この歯科医院は地元では古くからの由緒ある医院であったため、院長1名、助手2名、受付1人名、衛生士1名のスタッフに対し、1日100名近くの患者さんが常時来院していました。
朝9時からの診療にもかかわらず、8時半に出勤するとすでに待合室に20人以上もの患者さんが待っていらっしゃいます。

新米歯医者にとって、患者さんの診療を担当させて頂けるだけでもありがたかったのですが、実情としてどんどん診療せざるを得ないので、エンド(根管治療)や抜歯、形成など、基本的な診療に対して一通りの経験を積むことができました。

1年という期間が決まっていたということもありますが、渡米前にある程度の臨床をこなせるだけの経験を集中的に得ることができて、今でもとても感謝しております。

1984年の春、1年間勤めて貯めたお金を携えて、アメリカ東部のウエストヴァージニア大学に入学しました。

アメリカ時代

アメリカ時代アメリカでは顎関節症の勉強をするつもりでいたのですが、当時はまだ顎関節症専門医を養成する正式なコースは無く、臨床は補綴科が主体となってTMJクリニックを作って診療にあたっていました。

クリニックのレジデントとして滞在しながら、片則性の咬合高径の変化が顎関節の内部構造に対して、どのような影響を与えるのかということを研究のテーマにしました。

当時1ドルは270円前後で、1年間働いて貯めた資金も、今では考えられないほど円安のために半年あまりであっという間に底をついてしまいました。

九州での学生時代に勉強していなかった反動のせいか、それなりに学業に励んだ結果、幸いにも州の奨学金を得る事が叶い、授業料も無料となりました。

診療と研究はその後順調に進み、86年の暮れには関節円板の変成で学位を得ることになり、同年の12月に帰国しました。

千葉時代

千葉時代86年暮れに帰国してから、次の目標は開院でした。
開院資金を貯めるため、勤務先を探していたところ、大学時代の同級生から千葉県の歯科医院を紹介されました。

ある不動産業者がスーパーの2階に歯科医院を開いたものの、院長のなり手がなく、半年ほど空き家状態になっていた医院でした。

世はまさにバブル前夜。
不動産業界では、歯科医院の経営にも進出している業者さんがいらしたんですね。
医院が立ち上がるまで1年契約ということで勤務させていただき、その後は地元である九州に戻って開院しようとのんきに構えていました。


話は前後しますが、留学から帰った直後、「フィラデルフィアのペンシルヴァニア大学に行きたい」とのことで米国留学の話を聞かせてほしいという先生がいらっしゃいました。
非常に熱心な先生で、そのときは初対面にもかかわらず、千葉市のファミリーレストランで「もう閉店です」と言われるまで、顎関節症について色々議論しました。
当時はその後一緒に仕事をするとは思いもよらなかったのですが、現在に至るまでご一緒するようになった弘岡秀明先生との出会いでした。

雇われ院長として始めた千葉県の医院では順調に患者さんも増え、顎関節症患者には、アメリカで実践していた治療経験を活かしていこうとはりきっていました。

今では考えられないのですが、当時80年代半ばの歯科治療では、例えば顎内障のような患者さんのケースに対し、スプリントで獲得したいわゆる新しい顎位を補綴的に再現するという考え方が一般的でした。

このようなやり方は全顎的な修復治療にいたることも多く、特に臼歯部については天然歯を削らなければならないことがままあったため、何とか削らないで矯正的な手法で新しい顎位を獲得できないものかと悩んでおりました。
当時の私は矯正的アプローチをまだ充分に施すことができなかったため、顎関節症の治療手段として矯正の勉強が必要なことを痛感しました。

医院が近いということもあり、すでに頻繁に行き来していた弘岡先生に相談したところ、東京歯科大学矯正科の臨床レベルが高いということでした。矯正を一から勉強し、自分が行っている顎関節症の治療に活かしていこうと決め、東京歯科大学の門を叩きました。

またこれより少し前、当時フロリダ大学から帰国されて補綴咬合の研修会を主催されていた藤本順平先生の研修にも参加させていただきました。
1年間のコースで学ぶうち、自分自身がアメリカで学んだことが一層整理整頓されたと感じるとともに、先生の臨床に対する真摯な姿勢に感銘を受けました。

その後、自分自身がこの研修会で同じ教壇に立つことになるとは思いもよりませんでした。

東京歯科大学矯正科時代

東京歯科大学矯正科時代東京歯科大学の矯正科は3年間のフルタイムで通う研修制度があり、1989年から入局がゆるされました。

その直前に弘岡先生がスウェーデンのイエテボリ大学のリンデ教授の下に留学することになり、2人で弘岡歯科医院の買い手を捜していましたが結局適当な方は見当たらず、雇われ院長辞めたばかりの私が先生の帰国まで、そのまま引き継ぐことになりました。
大学での研究もありますので、月曜から金曜まで新人の矯正医として診療と講義、土日は弘岡歯科の院長として一般開業医の立場から診療をする毎日となりました。

一般開業医として矯正の勉強をしてみると、ある患者さんに対して矯正治療的な見方もできるようになりました。それはあたかも患者さんに対して違う方向から光をあてるような新しい世界が広がったような体験です。
さらに私自身で歯牙移動ができるようになると、臨床の幅が大きく広がることに気づきました。

この時の一般開業医としての立場から矯正を勉強したこと、具体的には矯正の診断をできるようになったことがGP(一般歯科)の診療によい影響を与えるということが、後に私の臨床のテーマともなりました。


1992年に無事研修も終え、矯正科の非常勤講師となりました。
東京歯科大学の矯正科に入局した当時は、まだ顎関節症の開業医としてやっていこうと考えていたのですが、80年代後半から顎関節症に対する考え方が大きく変化しました。

具体的には、それまでさかんに言われていた、いわゆる顎関節症に対する、不正咬合の関与性に対する否定的な意見が主流になり始めたということです。

このことは1989年にマクニールらが中心となって出したAAOPのレポート(筆者により、ザ・クインテッセンスに邦訳済み)などから言われていましたが、1996年のNIHのコンセンサスでほぼ決着がつき現在に至ってるといっても良いかもしれません。

このような経緯から、矯正科を卒業し、身の振り方を考えたとき、顎関節症の専門医として開業しても咬合の関与性が以前に考えられているよりも少ないのであれば、開院しても経営的に難しいのではとの思いに捕われました。


時間は前後しますが、1990年にUCLAのソルバーグの元を訪れた際、不正咬合の関与性に対する否定的な意見を伺ったのと、1993年にノースカロライナ大学のでトムランディーン(顎運動で有名なハリーランディーンのご子息)が顎関節の専門家として開業した医院へ見学に訪れたところ、歯科のチェアは1台のみで、理学療法士を2人雇い、治療用のベッドが3床備え付けてあるのを見学して、「あぁもう顎関節症は歯科医の知識だけですべてが対処できる時代は終わったのかもしれない」という感慨もありました。

そのようなわけで、自分自身が勉強してきた顎関節症の治療をはじめ、一般的な補綴やペリオ(歯周病)、そして矯正歯科治療という積み重ねを考えると、成人矯正専門として開院するのが現実的だという結論に至りました。

大手町時代

大手町時代1992年に大手町2丁目のビルの医療区にちょうど空きがあり、成人矯正専門として開業することができました。

この当時、舌側矯正で開院されている先生は当然成人矯正治療が主体でしたが、通常の矯正歯科治療で成人患者さんのみを対象に開院した専門医院は、たぶん私が初めてだったと思います。

成長発育期―いわゆる小児の患者さんは、原則的に大きな虫歯がなく、当然永久歯の欠損もない、そして歯周病も無いのが普通です。

それに対し、成人患者の特徴は、すでにクラウンや詰め物で修復された歯が多く、中には欠損歯があったり、歯周病の問題を持っている場合も少なくありません。
従って開業前は一般歯科の問題を色々とかかえている患者の矯正治療が治療の主体になると思っていました。

ところがいざ開院してみると、来院する患者さんのほとんどは20代から30代の、大手町丸の内近辺に勤める女性が多く、歯周病はおろか、虫歯や欠損歯も非常に少ない方が大部分でした。

多くのケースで患者さんの主訴は審美性の改善、要は歯並びを整え、なおかつ口を閉じたときの口元感をよりきれいにしたいということでした。
患者さんの想いに応えるため、毎日遅くまで懸命に治療を続けました。

矯正治療の目標は審美性の改善が全てというわけではなく、咀嚼や発音に対して機能的な良い影響もありますが、審美性の改善は患者さんご自身が非常に実感しやすいこともあり、治療結果に喜んでいただけることで、やりがいも感じていました。

そうこうしてるうちに1992年暮れ、弘岡先生が帰国。その後日比谷で新たに開業することになりました。
歯周病により本来の位置から病的に移動してしまった歯を矯正するという私の新しい仕事も始まりました。

表参道時代

表参道時代成人専門矯正歯科医院としてはじめた加治矯正歯科も、大手町の医院が多少手狭になり、、後にイエテボリ大学矯正科に留学することとなる私の弟が勤務し始めてくれたこともあって、1997年に表参道に分院となるクリニックを開きました。

同じ頃、前述の藤本先生から、私自身が千葉時代に経験したことを活かし、一般臨床医のための矯正コースをやらないかとのお誘いがあり、研修会の教壇に立つことになりました。
2012年現在、16年目として現在に至ります。


顎関節症に対し、咬合の不関与性は今では、コンセンサスができてると思われおりますが、歯科の二大疾患である、虫歯と歯周病に関して歯並びと噛み合わせがどのくらい関与しているかは今だもって明確に解明されてはおりません。

歯の混雑がある患者さんでは当然清掃性が低下し、プラークがたまりやすい環境のため、虫歯や歯周病のり患率が高まるように思われますが、今のところはっきりした根拠は提示されていません。
矯正で歯並びや噛み合わせを治療することが、単純にその方が亡くなるまで自分の歯を失わないという免罪符を買ったことにはならないということです。
多分プラークコントロールをしっかり行うことの方が、影響力が大きいと思われます。
だからと言って矯正治療の価値が軽んじられるわけでなく、臨床では開咬症例のようにむしろ矯正的手段以外に良い治療法がないこともままあります。

今のところ矯正治療が明らかに患者さんに貢献しているわかりやすい部分があるとすれば、それは審美性の改善ではないでしょうか。

表参道の加冶矯正歯科クリニックでは、日本人の顔貌に合わせた、可能な限り審美的な位置に歯を並べるということを実践しています。

また、人間はもともと日常生活の99%は口を閉じて生活しているのですから、口を閉じたときの顎の大きさや形まで踏み込んだ治療をコンセプトにしています。
具体的には鼻から下の審美性を改善するためのおとがいへのヒアルロン酸注入や、顎の骨の手術を含めた選択肢を用意しています。

うれしいことに表参道の加冶矯正歯科クリニックでは、大手町時代に治療をした患者さんがお子さんを連れて来院され、親子二世代にわたって治療をされる方々も増えています。


一方、歯周病や欠損歯のある患者さんは、たいてい中高年者の方々です。そのような方の矯正歯科治療も、2000年過ぎ頃から増加傾向であることを実感しています。
中高年の患者さんにおいて、最近は治療計画の中で臼歯部欠損に対してのインプラント治療の使用率が高まり、それを強力な固定源として使うことで矯正治療の適用範囲も広がっています。

中高年の方々は"矯正をしたい"というよりも、歯科の全体の治療の中で、矯正をしないと治療がスムーズにいかないというタイプが多いと思われます。
逆に短期間でも矯正を適用することで、治療結果の品質が大きく向上するケースも多いのではないかと思います。
高齢社会を迎え、このような矯正が増えている事を実感しているところです。

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