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千葉時代

千葉時代86年暮れに帰国してから、次の目標は開院でした。
開院資金を貯めるため、勤務先を探していたところ、大学時代の同級生から千葉県の歯科医院を紹介されました。

ある不動産業者がスーパーの2階に歯科医院を開いたものの、院長のなり手がなく、半年ほど空き家状態になっていた医院でした。

世はまさにバブル前夜。
不動産業界では、歯科医院の経営にも進出している業者さんがいらしたんですね。
医院が立ち上がるまで1年契約ということで勤務させていただき、その後は地元である九州に戻って開院しようとのんきに構えていました。


話は前後しますが、留学から帰った直後、「フィラデルフィアのペンシルヴァニア大学に行きたい」とのことで米国留学の話を聞かせてほしいという先生がいらっしゃいました。
非常に熱心な先生で、そのときは初対面にもかかわらず、千葉市のファミリーレストランで「もう閉店です」と言われるまで、顎関節症について色々議論しました。
当時はその後一緒に仕事をするとは思いもよらなかったのですが、現在に至るまでご一緒するようになった弘岡秀明先生との出会いでした。

雇われ院長として始めた千葉県の医院では順調に患者さんも増え、顎関節症患者には、アメリカで実践していた治療経験を活かしていこうとはりきっていました。

今では考えられないのですが、当時80年代半ばの歯科治療では、例えば顎内障のような患者さんのケースに対し、スプリントで獲得したいわゆる新しい顎位を補綴的に再現するという考え方が一般的でした。

このようなやり方は全顎的な修復治療にいたることも多く、特に臼歯部については天然歯を削らなければならないことがままあったため、何とか削らないで矯正的な手法で新しい顎位を獲得できないものかと悩んでおりました。
当時の私は矯正的アプローチをまだ充分に施すことができなかったため、顎関節症の治療手段として矯正の勉強が必要なことを痛感しました。

医院が近いということもあり、すでに頻繁に行き来していた弘岡先生に相談したところ、東京歯科大学矯正科の臨床レベルが高いということでした。矯正を一から勉強し、自分が行っている顎関節症の治療に活かしていこうと決め、東京歯科大学の門を叩きました。

またこれより少し前、当時フロリダ大学から帰国されて補綴咬合の研修会を主催されていた藤本順平先生の研修にも参加させていただきました。
1年間のコースで学ぶうち、自分自身がアメリカで学んだことが一層整理整頓されたと感じるとともに、先生の臨床に対する真摯な姿勢に感銘を受けました。

その後、自分自身がこの研修会で同じ教壇に立つことになるとは思いもよりませんでした。


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